北の富士の解説は見事!嫁や結婚と体調不良の状態?現役と旭川時代

大相撲が現在活況の理由の一つに考えられるのは北の富士の解説が人気の原因かも知れません
そこで今回は北の富士の嫁さんの情報や結婚の経緯や体調等についてだとか気になる生い立ちの
旭川時代の情報を調べてみました。

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北の富士の解説について

1998年にNHK専属で相撲解説を開始しました。

2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載している。

[北の富士コラム]高安、再出場はやめておけ」

大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。

この時点から北の富士さんのテレビ解説が楽しめる様になりました。相撲ファンにとっては楽しみが増えた事になったのです。

北の富士さんの解説は、特別わかりやすい内容だけではなく、過去の経験談や力士のファンの知らない情報を提供してくれるのでうれしいですね
放送の中では、同時に解説するアナウンサーとの会話や一緒に解説している舞の海さんとの息のあった会話も楽しめるのは嬉しい限りです。

同時に、北の富士さんの出演時の衣装も和服であったりラフな衣装を見ていると、大変な日本人らしい姿は、ダンディに見えます。
これからも体調に気をつけて頑張って下さい。

北の富士のプロフィール

本名 竹澤 勝昭
四股名の遍歴  竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 →

北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 →

北の富士 勝晃 →北の富士 勝昭

愛称 夜の帝王・ 現代っ子横綱・香車

・槍烏賊・若手三羽烏・名門の二男坊・イレブン横綱

・プレイボーイ横綱

生年月日 1942年3月28日(77歳)
出身地 北海道旭川市
身長  185cm
体重  135kg
所属部屋 出羽海部屋→九重部屋
得意技 突っ張り、左四つ、寄り、上手投
BMI 39.44

北の富士の来歴 誕生~入門

1942年3月28日に北海道網走郡美幌町で生まれています。
歳の時に北海道網走郡美幌町から、留萌市へ転居して留萌市立留萌小学校へ入学する

留萌市に転居して、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍したらしいですがこの頃から
身体は恵まれた身体のようですね

留萌市立港南中学校に進学後も軟式野球の投手で4番を務めるなど、
チームの最主力選手として活躍するが、旭川市立光陽中学校に転校しました。

悲しいことですが、少年期に父が事業に失敗したらしく、3度に渡って夜逃げを経験しています。

1954年のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われていたので
家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした少年を見つけた横綱・千代の山から直々に「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」と声をかけられ、これがきっかけで相撲に興味を持つようになったのです。

横綱・千代の山から声をかけられた後、いざ実際に出羽海部屋に出掛けるまでには、今迄誘われていた学校を断って出発したのだが、其の時になって、出掛けようと決心したのに、靴を買う金すらなく、学生服に下駄履きという姿で上野駅に降りた竹澤は、母からいざという時のため換金用に渡されたアズキ三袋を手にしていたが、すぐに転んで道に撒いてしまったというもったいないことをしてしまった様です。

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北の富士の来歴 初土俵~十両で全勝まで

1957年1月場所、竹沢(本名)という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏むが、今までは故郷の生活に馴染んでいたが急に東京の生活に馴染めないので
これが原因で体重が激減してしまった。

3月場所は計量直前に大量の水を飮んで体重基準を通過したがあまりにも痩せていたことから期待に反して出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。

入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの式守鬼一郎の付き人も務めていた。1960年には三段目まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発した。

それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院を余儀なくされ、50日間に及ぶ入院生活を送った。

このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している。

1963年3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で、史上3人目の15戦全勝優勝を達成した

北の富士の来歴 入幕~大関昇進まで

1964年1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。

この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた清國勝雄・若見山幸平とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。同年3月場所に小結へ昇進すると同年7月場所には関脇に昇進、その取り口は「スピード相撲」と称された。

1966年7月場所後に大関に昇進するが、昇進直前3場所の成績は、8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、
15日制が定着した1949年5月場所以後では
北葉山と並ぶ最低の数字である。

北の冨士の大関昇進場所当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時でも意外と言われた大関昇進だった。

それ故か北の冨士自身、新大関が決まった時も、まさか自分が大関に昇進するとは思っていなかったため何も用意しておらず、
大関昇進の決定伝達を行う日本相撲協会からの使者を迎える際に必要な紋付や足袋も全く持っていなかった。

そのため、紋付は当時兄弟子であった佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式に間に合わせたという。

北の富士の来歴 幕内初優勝・横綱昇進へ

大関時代に九重が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、
九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。
そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、
独立後は部屋頭となった。独立した当初の九重部屋は経営が決して楽ではなく、既に大関に昇進していた北の富士が巡業で九重と布団を譲り合う時期もあったという。

その独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で悲願の幕内初優勝を決め、一緒に移籍した松前山武士も十両優勝を達成した。

だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう。

初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「富」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・玉乃島らの綱獲り挑戦にも失敗に終わっている。

1969年夏巡業の頃から、大の稽古嫌いで知られていた北の富士は人が変わったように稽古に打ち込んだ。その背景には、入門するまで1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた人物である村上精一郎が脳軟化症で余命幾許もない(同年12月14日に死去)という状況があり、村上からは「お前が綱を張ることを信じている」と激励された。

同年9月場所は大関・玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、
11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は、北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対によって却下された。

それでも11月場所後の九州地方巡業で、ほとんどの力士が悪天候と寒波に見舞われて稽古ができなかった中、北の富士はただ一人稽古を皆勤した。

その甲斐あってか、1970年1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、場所後に行われた横綱審議委員会でも文句無しの評価を受け、同場所の優勝決定戦で北の富士に敗れ優勝同点だった玉乃島と共に、ようやく念願の横綱へ昇進した。

大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった。
昇進伝達式では「一生懸命やらせていただきます」と口上を述べた。

北の富士の来歴横綱昇進~現在まで

1998年に相撲協会理事選の候補から外されたことで日本相撲協会を退職
大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。

2002年2月には満60歳を祝い太刀持ち・千代の富士(九重親方)、露払い・北勝海(八角親方)と共に、横綱昇進を果たしたかつての弟子二人を従えての還暦土俵入りが行われたが、相撲協会から退職していたために両国国技館が使えず、都内のホテル(ホテルイースト21東京)のホールを借りての還暦土俵入りとなった

北の富士の生立ち

当然1942年生まれの北の富士さんで現在75歳と高齢ではありますが彼の生まれも、時代背景もありますがそれ以前にも父親の事業の失敗などで北海道網走群から3度の夜逃げを経験したそうです。

何とも今の北の富士さんからは想像出来ない切なくなるような
時代を乗り越えて今があるのですね。

北の富士の嫁さんの情報

「初代女将・千代子の日記 料亭 濱長」

北の富士の結婚について

正式な離婚当時の年齢は不明だが、その後40歳過ぎに、元ホステスだった奥様と再婚している。

奥様の旧姓は竹澤貴子さん

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北の富士の体調について

北の富士さんはもともと不整脈の持ち主かも?16年12月に横浜の心臓の名医に診察してもらった所心臓弁膜症であることが発覚。すぐ入院して人工弁を入れることになったそうです。

心臓弁膜症は加齢や若い頃の負担によって心臓の弁が固く開閉ができなくなる病気といわれますが年齢敵な事を考えてもカテーテル手術を受けたのでは~と言われているようです。

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